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東京地方裁判所 平成8年(ヨ)21207号 決定 1997年1月24日

主文

一  本件申立を却下する。

二  申立費用は、債権者の負担とする。

理由

第一  当事者の申立

一  申立の趣旨

債務者は、債権者に対し、金四二万八〇〇〇円及び平成八年一〇月から毎月二五日限り一ケ月金二一万四〇〇〇円の割合による金員を仮に支払え。

二  申立の趣旨に対する答弁

1  本件申立を却下する。

2  申立費用は、債権者の負担とする。

第二  当事者の主張

一  債権者の主張

1  (被保全権利)

(1) 債務者は、肩書地に本店を置き、ディスカウント・スーパーマーケットの店舗展開をする会社である。

(2) 債権者は、平成五年五月一八日ころ、試用期間三ケ月、試用期間中の賃金を年額七三〇万円とし、試用期間経過後の賃金を年額七八四万七五〇〇円とする旨の約定で、期間を定めずに被告に雇用され、債務者の社長付スペシャル・アシスタントとして勤務した。

2  (保全の必要性)

(1) 債務者は、債権者に対し、平成八年六月一三日以降、債権者の賃金を月収二四万八〇〇〇円とする旨を通告し、債権者が債務者に対して約定の年俸額による賃金債権を有することを争っている。

(2) 債権者は、独身女性であり、近所に居住する実母を扶養する関係もあって、毎月、生活費として、次の程度の支出(月額合計三三万九〇九〇円)が最低限必要である。

<1> 家賃          四万五一五〇円

<2> 風呂代         一万一一〇〇円

<3> 電気代           四〇〇〇円

<4> 水道代           一五〇〇円

<5> ガス代           一七〇〇円

<6> 電話代         一万〇〇〇〇円

<7> 新聞・雑誌・書籍代   一万〇〇〇〇円

<8> 美容院代          三三〇〇円

<9> 生命保険料       三万四〇九〇円

<10> 実母への援助     二万〇〇〇〇円

<11> 交通費        一万九九八〇円

<12> 食費         六万一六〇〇円

<13> 交際費        四万〇〇〇〇円

<14> 衣料費・履物代    四万五〇〇〇円

<15> 日用雑貨費      一万〇〇〇〇円

<16> 冠婚葬祭・旅行費   一万六六七〇円

<17> クリーニング代      五〇〇〇円

(3) 債権者は、平成八年一二月一八日、当時居住していたアパートが火事になり、住居を失って、現住所に転居を余儀なくされた。この火事及び転居に伴い、債権者は、約六〇〇万円に上る損害を被ったほか、転居に伴って、次のような出費(合計六一万二八五七円)を強いられた。

<1> 住居費(敷金等)   一九万五〇〇〇円

<2> 引越費用        五万〇九八五円

<3> 住民票            二〇〇円

<4> 家庭雑貨       一二万九三八三円

<5> 電化製品等      二七万六二八九円

<6> タクシー代         六〇〇〇円

(4) 債権者は、現在支給されている賃金額では、生活に困窮することが必至である。

二  債権者の主張に対する認否

1(1) 債権者の主張1(1)の事実は、いずれも認める。

(2) 債権者の主張1(2)の事実のうち、採用後三ケ月間を試用期間とし、当初の賃金額を年俸七三〇万円とする旨の約定で債務者が債権者を雇用したこと、試用期間経過後の債権者の賃金年俸が七八四万七五〇〇円であったこと、債権者が当初は債務者代表者のスペシャル・アシスタントとして勤務していたことは認め、その余は否認する。

債務者と債権者との間で雇用契約が成立したのは平成七年四月一九日であり、就労開始日は同年五月八日である。また、債務者と債権者は、平成七年一一月一日ころ、同年八月七日に遡って、債権者の年俸額を七八四万七五〇〇円とする旨を合意したものである。

2(1) 債権者の主張2(1)の事実は、認める。

(2) 債権者の主張2(2)の事実のうち、債権者が独身女性であることは認め、その余は知らない。

(3) 債権者の主張2(3)の事実のうち、債権者が火事に遭ったことは認め、その余は知らない。

(4) 債権者の主張2(4)は、争う。

三  債務者の主張

1  (被保全権利の不存在)

(1) 債権者は、債務者に雇用された後、債務者代表者に対し、昇進・昇格を希望していた。そこで、債務者代表者は、債権者に対し、「昇進・昇格を希望するのであれば、スペシャル・アシスタントのままでは無理である。商品部に移ってバイヤーになった方が実力次第では昇進・昇格の可能性がある。」旨を打診した。その後、債権者は、債務者の商品本部長とも面談をしたが、その結果、右債務者代表者からの打診に応諾し、平成七年七月一日付けで債務者商品部へ異動となった。

(2) 債権者は、商品部に異動となった後、商品部の仕事については未経験であったのにもかかわらず、商品部の仕事について自ら積極的に勉強しようとせず、上司の指導や指示を聞かないという状態が続いた。また、仕事上のミスや時間管理が不適切であることも次第に明らかとなり、同年一一月一日に同年八月七日に遡って昇給となった後においても、勤務態度に改善が見られず、必要書類を提出しなかったり、上司の注意に対して口答えをしたり、さらに、同僚に暴言を吐いたりすることもあった。

(3) そこで、債務者は、債権者に対し、平成七年一一月一七日、警告書を発し、<1> 上司の指示に従い、所定の業務を十分に遂行していないこと、<2> 事前事後の連絡なく、遅刻が多いこと、<3> 他の者との協調を欠き、円満な業務の遂行を阻害していること以上の三点につき具体的な事実に即して説明をした上、善処を求めた。

(4) 債務者は、その後も債権者に対する指導・研修を続けたが、債権者の勤務態度には一向に改善が見られなかった。

そこで、債務者は、債権者に対し、平成八年三月二九日、債権者がバイヤーとして指示された仕事ができていないことを具体的に説明し、さらに二ケ月間様子を見るので、その間に改善が見られなければ、バイヤーのアシスタントに降格し、給与もそれに応じたものになることを説明した上、その内容をまとめた文書を債権者に交付した。

(5) しかし、右二ケ月間の猶予期間を経過しても債権者の業務態度等に改善が見られなかったため、債務者は、平成八年六月一〇日ころ、同年六月一七日付をもって債権者を商品部のスタッフ(バイヤーのアシスタント)に降格し、その降格に伴って、賃金も同年七月一七日付で大幅に減額なることを告知し、同年六月一三日付で債権者の給与を月額二四万八〇〇〇円とすることを記載した文書を交付した。

(6) 右スタッフとしての賃金額は、他のスタッフの賃金額を基準として決定されたものであり、相当である。

(7) 債権者の賃金の減額は、右のとおりの経過によってなされたものであるから、正当であり適法であって、債務者の裁量権の範囲内にある。

2  (保全の必要性の不存在)

(1) 債務者は、債権者に対し、月額二四万八〇〇〇円の賃金を支払っているほか、右月額の五ケ月分の額に相当する賞与も支払っており、これらを合計した債権者の現在の年収額は、四二一万六〇〇〇円である。

(2) 債権者の居住している東京都の世帯人員別標準生計費(平成八年四月)によると、世帯人員が一人の世帯の標準生計費月額は、合計一二万六三九〇円であり、その内訳は、次のとおりである。

<1> 食料費         三万四八一〇円

<2> 住居関係費       二万八〇五〇円

<3> 被服・履物費      一万〇六六〇円

<4> 雑費[1](交通費等) 三万八〇四〇円

<5> 雑費[2](その他)  一万四八三〇円

(3) したがって、債務者は、債権者に対し、独身女性が生活するのに必要十分な金額の賃金を支給しているのであり、本件において、賃金仮払の仮処分としての保全の必要性はない。

第三  当裁判所の判断

一  (雇用契約の成立について)

1  債務者が債権者を平成七年に雇用したこと、雇用条件は、採用後三ケ月間を試用期間とし、当初の賃金額を年俸七三〇万円とするものであったこと、試用期間経過後の時点における債権者の賃金額が年俸七八四万七五〇〇円であったことについては、いずれも当事者間に争いがない。

2  なお、契約の成立時期については、債務者から債権者宛の平成七年一一月一日付書簡によれば、同書簡に「貴女が我社へ入社された三ケ月後である一九九五年八月七日」と明記されているとおり、平成七年五月八日であることが疎明される。この点に関して、債務者が雇用契約締結日として主張する同年四月一九日は、雇用契約の締結に至るまでの交渉過程においてなされた雇用条件の申込日に過ぎず、その時点では、契約締結に至ってはいなかったものと解され、したがって、仮に同年四月一九日に何らかの合意が成立していたとしても、それは、雇用契約の予約的なものであったと解すべきである。そして、右雇用契約に基づき、債権者は、同年五月八日から債務者代表者のスペシャル・アシスタントとして就労を開始したが、同年五月二三日付債務者から債権者宛の書簡によれば、債務者は、契約内容である賃金額に関する債権者の要望を受け入れて、同月二三日、賃金額を当初約定金額である年俸七〇〇万円から年俸七三〇万円へ増額することを約したことが疎明される。

3  しがって、債権者と債務者間の本件雇用契約の締結日及び就労開始日は、平成七年五月八日であり、同日から起算して三ケ月の試用期間経過後の賃金額は、年俸七八四万七五〇〇円(年俸額を一二ケ月で除した月割額は六五万三九五八円)である。

4  以下、右疎明事実を前提に、本件について判断する。

二  (配転に伴う賃金減額の正当性について)

1  一般に、労働者の賃金額は、当初の労働契約及びその後の昇給の合意等の契約の拘束力によって、使用者・債務者とも相互に拘束されるのであるから、労働者の同意がある場合、懲戒処分として減給処分がなされる場合その他特段の事情がない限り、使用者において一方的に賃金額を減額することは許されない。

2  ところで、本件において、債務者が一方的措置として債権者の賃金額を減額したことについては、当事者間に争いがない。

この賃金の一方的な減額を正当化する根拠として、債務者は、経営者としての裁量権の行使として賃金額減額をすることができる旨を主張する。しかしながら、経営者としての裁量権のみでは、一方的な賃金減額の法的根拠とならない。なお、本件における減額が勤務成績不良による懲戒処分としての減額の場合であるとするならば、就業規則の定めその他の懲戒処分の根拠を主張・疎明する必要があるが、このような主張・疎明はない。

3  他方、債務者は、債権者が業務成績不良であるため、債権者に対し、当初の契約内容とは異なる職種への配転を命じ、この配転に伴って、配転後の職種の他の従業員と同等の賃金額に減額したものである旨を主張する。

たしかに、配転については、原則として、経営者の裁量権が尊重されるべきであり、労働者は、具体的な職務内容を求めることのできる具体的な請求権を有しないと解するべきである。

しかしながら、配転と賃金とは別個の問題であって、法的には相互に関連しておらず、労働者が使用者からの配転命令に従わなくてはならないということが直ちに賃金減額処分に服しなければならないということを意味するものではない。使用者は、より低額な賃金が相当であるような職種への配転を命じた場合であっても、特段の事情のない限り、賃金については従前のままとすべき契約上の義務を負っているのである。したがって、本件においても、債務者から債権者に対する配転命令があったということも契約上の賃金を一方的に減額するための法的根拠とはならない。

4  なお、本件雇用契約が期間を定めない労働契約であることについては、当事者間に争いがないから、本件雇用契約における賃金の定め方もまた、固有の意味での年俸ではない。

すなわち、固有の意味での年俸は、契約期間を一年とする雇用契約における賃金であって、その金額に関する契約上の拘束力も契約期間である一年間に限定される。したがって、固有の意味における年俸にあっては、一年間の契約期間が経過した後、年俸額も含めて従前通りに契約更新をする旨の合意が存在しない限り、前年度の年俸額がそのまま次年度の年俸額となるわけではなく、仮に雇用することのみについて契約更新をすることの合意が成立し、年俸額については合意が成立しないというような事案があるとすれば、そのような年俸額に関する合意未了の労働者は、賃金債権につき契約上の何らの発生原因を有しないことになり、たかだか当該年度において当該契約当事者双方に対して適用のある最低賃金の額の限度内での賃金債権を有するに過ぎないことになるであろう。右のように、かかる固有の年俸制による労働契約にあっては、各契約年度の賃金債権は、使用者と労働者との間の合意によってのみ形成されることになるから、労働者の前年度における勤務実績や当年度における職務内容等の諸要素によって、事実上、前年度よりも年俸額が減少する結果となることもあり得ることであり、それが当事者間の合意に基づくものである限り、年俸額の減少は、適法・有効である。

しかしながら、前記のとおり、本件雇用契約は、期間の定めのない労働契約であり、右のような意味での固有の年俸制による労働契約ではないのであるから、この意味においても、本件において、使用者たる債務者から労働者たる債権者に対してした一方的な賃金の減額措置は、無効である。

5  以上を要するに、債権者は、その主張のとおりの被保全権利を有しているのであり、債務者は、債権者に対して、平成八年六月一三日以降においても、年額七八四万七五〇〇円の割合による賃金を支払うべき契約上の義務を負っているのである。

三  (保全の必要性について)

そこで、本件における保全の必要性につき判断する。

1  まず、一般に、賃金仮払いの仮処分は、賃金以外に所得がなく、賃金収入を断たれることによって生活基盤そのものが破壊されかねないという賃金労働者が置かれた特殊状況に鑑み、そして、このような意味での賃金労働者に対してのみ認められ得る一種の断行の仮処分である。しかも、後日、仮に本案訴訟において債権者たる労働者の賃金債権の不存在が既判力をもって確定したとしても、使用者から労働者に対して現実に仮払いされた仮処分上の賃金を、使用者が不当利得として返還請求することは、当該労働者に特段の資産がない以上(当該労働者が預貯金等の資産を有し、これによって不当利得の返還が可能であるというような場合には、そもそも賃金仮払の保全の必要性がなかったことになる。)、事実上不可能であるというのが一般的な実状である。したがって、賃金仮払の仮処分における保全の必要性は、他の通常の保全処分における保全の必要性とはかなり異なり、賃金仮払いという非常に強力な法的措置を肯定するに足りるだけの極めて高度の必要性が存在することを要件とし、かつ、原則として、当該労働者の生活の窮迫を避けるのに足りる程度の金額をもってその上限とすべきものと解される。

2  右のような理解を前提にして本件につき判断すると、債権者は、保全の必要性のある賃金の月額として、縷々主張するところである。

しかしながら、まず、債権者が実母に対する援助として支出していると主張する月額二万円についてであるが、債権者が一親等の血族である実母に対して民法上の扶養義務を有することは当然であると認め得るものの、そのことの故に、債権者の実母の扶養に必要な金額を仮払賃金によって使用者たる債務者に負担させるべきことまでをも民法の該当法案が要求しているという解釈論は、意味のある解釈論としては存在せず、したがって、この点に関する債権者の主張は、失当である。また、債権者が生活に必要なものとして主張する諸々の支出費目のうち、家賃、風呂代、電気代、ガス代、水道代以外については、特段の事情の主張・疎明がない限り、独身者である債権者と同等の者に対応する標準生計費と現実に支給されている金額との差額の範囲内でのみ保全の必要性があるものと推定すべきである。

本件において、右のような意味での特段の事情としては、債権者がもらい火により従前のアパートから焼け出されたことによる衣料費の特別支出が考えられ、この点については、債権者の主張額の範囲内で、その必要性の一応の推定があるものと判断する。

3  右の前提で、本件につき計算すると、次のとおりとなる(月額合計金一九万八〇〇〇円)。なお、千円未満の端数については、誤差の範囲内として適宜切上げ又は四捨五入等をした。

<1> 家賃 四万五〇〇〇円

<2> 風呂代 約一万〇〇〇〇円

<3> 水道代 約二〇〇〇円

<4> 電気代 約四〇〇〇円

<5> ガス代 約二〇〇〇円

<6> 衣料費 約四万五〇〇〇円

<7> その他 約九万〇〇〇〇円

4  そして、債権者の平成八年八月分の給与明細書によれば、債権者の所得税、健康保険料等を控除した後の現金支給額は、月額約一九万〇〇〇〇円であるから、右月額約一九万八〇〇〇円との差額は、月額約八〇〇〇円である。

5  しかしながら、債権者が火事による転居や家財購入等の支出を預貯金等の自己資金で補ってきたこと、債権者の従前の支出中には友人との交際費やパチンコ代あるいは飲食費等の奢侈費がかなりあるものの、これについても債権者の自己資金で全部補ってきたこと、債権者は、遅くとも賃金が減額される以前の時点では、月額八万円ずつ程度の貯金を積み立ててきており、その残高も一定程度に及んでいると見られること、以上の諸事情については、審訊の全趣旨によって明らかであり、かつ、債権者は、今後将来の支出を補うに足りる程度の預貯金その他の自己資金の不存在を主張・疎明しない。

したがって、本件につき、債権者は、賃金の仮払を受けなければならない程度に窮迫した状態にはないものと推定される。なお、債権者の賃金減額前の生活水準を前提に、その生活水準を維持するために必要な金額を推定してみると、概ね月額三〇万円程度の現金支給を要するものと推定されるが、この金額をもって債権者に必要な金額と仮定した場合であっても、やはり、債権者は、今後当分の間、自己資金をもって現実の賃金支給額との差額部分を補うことができ、したがって、生活に窮迫していないものと考えられる。

四  (結論)

以上のとおりであるから、債権者の本件申立は、保全の必要性の疎明がないものとして全部却下することとし、民事保全法七条、八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 夏井高人)

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